映画の中で性犯罪がどうとらえられてきたのかを学ぶため、映画でどのように表現されているかということを知るとともに、その時代の性犯罪の受け止め方を考察しようと思って、今日はこの3本をみた。「純」と「ら」は様々なところで取り上げられている新旧の話題作、「痴漢電車~」は、女性の性を撮り続けている浜野佐知監督の作品である。 「純」では、ピンク映画でもないのに被害女性のほとんどが痴漢されて性的に反応しているように描かれている。そして、恋人に指一本触れられなかった青年が最後は被害女性から逆に襲われるという展開を経て、恋人を愛せるようになる。これは何を根拠にしているのだろうか。 「痴漢電車~」(旦々社)では、現代では考えられないと思うが、現役の痴漢でありエロ漫画家が痴漢役として登場している。これはポルノ映画なので痴漢の描き方は犯罪というより官能的なものとして女性の体が被写体として提供されている。監督の最新刊「女になれない職業」ではピンク映画の修業時代に男の尻を撮ったら、男の尻で誰が喜ぶんだと怒られたという逸話があるが、この映画では存分に男の尻が出てくる。そして、女性の性を女性の手に取りもどすためにとり続ける浜野監督らしく、絡みは女性が中心だ。 「ら」は監督の実体験に基づいた映画なので、女性の体はでてこない代わりにむしろ性犯罪の残虐さが際立っているようにも思う。特に犯人は性的な暴行を目的というよりは思い通りにならない異性への支配欲求によって怒りを犯行に表しているように思える。拉致しなくてはならなかった彼の恐れは一体どこから来るのだろうか。主人公は被害を訴えなかったためにのちのさらにエスカレートした犯行の被害者が出てしまったことで、自分のことを責めて死のうとする。性暴力の計り知れない残虐性があらわされているように思う。
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